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それは“武勇伝”なのか? ― 粗野さと差別を語る道徳

かわい しん

2025/05/25

はじめに:なぜ私はこのことを書こうと思ったのか

Xで最初に行った投稿。

さっき武勇伝として電車内の優先座席に座ってる外国人に汚い英語で話しかけて近くにいた老人に席を譲らせたと語ってる人がいた。 優先座席ユーザーとしては、優先座席に座ることを不当な権利行使と判断する証拠と権利をご自身が持っていると誤解してる人は迷惑でしかないのでやめていただきたい。 あとかなり差別的ですよ

これはオンラインで耳にしたものに我慢ができずXに投稿したものです。 耳にしたあと、 しばらく自身の中で割り切れないものがあり、 怒りと恐怖から思わず投稿したのです。

この結果、当該発話者にブロックされました。 ブロック自体は覚悟はしており、 また元々、X上の知り合いだったものの、 もはや関係を修復したいとは思っていません。 しかしながら、上記の投稿には名前を記載していないものの、 それが一種の「晒し」であったのは事実でありその点は謝罪したいと思っています。 つまり、 私の投稿が個人を標的にしたと受け取られた可能性を遺憾には思います。 それでも、私の目的は有害な考え方・語りを批判することであり、 個人を羞恥にさらすことではなかったことは明言しておきます。

未だなお言い残していることがあると感じており、 筆を取った次第です。

第1節:アップロードした記録と、その言語的・倫理的分析

私は当初、この話者の語った行為(外国人に席を譲らせた)そのものに違和感を持っていましたが、後になってより強く引っかかったのは、「汚い英語で」とわざわざ強調していた部分でした。これは謙遜ではなく、誇りを込めた自己評価として語られていたのです。そのことに、私は強い異様さと不安を感じました。

この点について、私はAI(ChatGPT)との対話を通じて、自分の違和感の源泉を丁寧に言語化していきました。その過程で明らかになったのは、この「汚い英語」が、単なる語学的事実の記述ではなく、むしろ語り手にとっての“武勲”の証として機能しているという意外な視点でした。

彼/彼女にとって「汚い英語」は、「それでも通じさせた」という突破力の象徴であり、むしろ「上品な英語」や「礼儀的な説得」に頼らなかったことが、より庶民的でリアルな“痛快さ”を生んでいるのです。ここには「語学力の低さ」や「教養の不足」を恥じる感覚はなく、むしろそれらに対する開き直りと逆転的な優越感さえ読み取れます。流暢で礼儀正しい英語を使う人を“偽善的”と見なすような反エリート的感覚が、裏打ちされているのかもしれません。

この語りの中では、外国人という存在が暗黙のうちに「自分より格上」と見なされています。だからこそ「言葉が不自由でも、あの格上の相手を屈服させた」という形で、語り手は自身の行為を武勇伝に昇華しているのです。加えて、相手が「外国人」であること、しかもおそらくは白人と推定される語りぶりが、民族的・文化的優越感の逆転劇としてのカタルシスを提供している。

このようにして、「粗野でも正義を執行できた俺/私」という自己像が構築されます。それは、礼儀や倫理に裏打ちされた正義ではなく、「結果的に従わせた」という事実にこそ価値が置かれている――まさに「武力による勝利」に近い語りです。

第2節:武勇伝としての語りがなぜ歪んでいるのか

この「武勇伝」は、一見すると善行の報告にも見えます。高齢者に席を譲らせたという行為は、形式的には公共的配慮の発露とも言えるからです。しかし、その語りの構造を丁寧に読み解くと、以下のような倫理的歪みが明確に浮かび上がってきます。

倫理的問題点1:「格上/格下」という階層想定が差別を内在させている

まず、この語りは相手を「外国人=自分より上位(文化的、言語的、経済的)」と見なすことで、逆に「そんな相手を屈服させた自分」の武勇を成り立たせています。しかしその前提が、文化的差別意識そのものです。相手が白人だったから、あるいは自分より“偉そう”に見えたからこそ、「言い負かした」「譲らせた」ことに価値がある――この感覚自体が、逆説的に「自分の劣位」を内面化し、それを暴力で覆そうとする行為になっています。

倫理的問題点2:「力で屈服させたこと」を成功とする価値観の暴力性

次に、語りの核にあるのは「説得」ではなく「屈服させた」ことです。汚い英語で、強い語調で、外国人を席から立たせたというプロセス自体が「勝利」として語られている。これは、公共空間における他者との関係を、協調や共感ではなく、闘争と制圧の構図に置き換えているという点で、根本的な暴力性を孕んでいます。

倫理的問題点3:「配慮なき正義」は公共空間に恐怖と萎縮を生む

語り手は、「譲ってもらうべき人のために正義を行った」と考えているかもしれません。しかしその“正義”には、相手の事情への想像力や、丁寧な配慮は一切ありません。外見ではわからない障害や病気(たとえばてんかん)を持っている人もいます。その人たちにとっては、このような“強要型正義”は、単なる善意ではなく、恐怖の再来に他なりません。公共空間が「いつ怒鳴られるか分からない」緊張に満ちた場所になること自体が、まさに倫理の喪失です。

まとめ:語りの形式そのものが暴力性を再生産している

以上のように、この武勇伝の問題は「行為」そのものではなく、それをどう語るかにこそあります。「粗野であっても結果が出れば正しい」「強く出れば従わせられる」という価値観が、繰り返し語られることで、社会に共有されていく。つまり、語りの形式そのものが、暴力性を含んだ倫理の再生産装置になってしまっているのです。

第3節:私自身が恐怖し、やるせなさと怒りを感じた理由

この一連の語りに対して、私は傍観者ではいられませんでした。なぜなら、私はてんかんを患っており、日常的に優先座席を使うことがあるからです。

てんかんは、発作の予兆があっても、座って安静にしていれば回避できることがあります。だからこそ、たとえ外からは健康そうに見えたとしても、私にとって座席は「体調の安全弁」であり、社会的な遠慮や羞恥の対象ではなく、必要な医療的配慮に基づいた正当な権利です。しかし、あの「武勇伝」が語られることで、私は自分がその「譲らされる側」に当てはめられるかもしれない恐怖を感じました。たとえ正当な理由があって座っていても、「何か言われるかもしれない」「立たされるかもしれない」「証明を求められるかもしれない」と思ってしまう。こうした緊張は、私にとって非常にリアルな身体的・精神的圧力です。

そして、その圧力の源泉は、決して暴力的な行為そのものだけではありません。むしろ、それが「正義」として語られ、称賛されてしまうことにこそ、根深い問題があります。言葉による支配や威圧が「良いこと」とされてしまった瞬間、公共空間はすべての人にとっての安心の場ではなくなります。

あの話者のような人が、隣の席に座っていたとしたら――私はその瞬間から、自分の健康よりも、彼/彼女の視線を気にして呼吸を浅くし、「何も言われないように」振る舞うでしょう。公共空間にいるはずなのに、自分が自己弁明を強いられるような構図。それは、制度や道徳の問題というよりも、この人がいるだけで空気が危険になるという、ごく身体的な直感です。

さらに私を打ちのめしたのは、そうした粗野さや差別的態度、そして暴力的な手法が、「痛快」や「実行力」として語られていた点でした。それは、自身の攻撃性を恥じるのではなく、むしろ誇らしげに表明する姿勢であり、「暴力性を持っていても正義をなせる」とする言説が、まるで勲章のように掲げられていたのです。私は、そのような倫理の転倒に直面しながら、「こんな人たちとも同じ公共空間を共有しなければならないのか」と深い脱力と絶望を感じました。

怒りとは、必ずしも怒鳴る声で表現されるものではありません。何も言えなくなるほどの「言葉を奪われる感覚」もまた、怒りのかたちです。そして私は、まさにその怒りの中で、この論考を書いています。

第4節:「恥ずかしさ」の感覚を回復するために

この論考は、あの話者自身に直接届くことを目的として書いているわけではありません。むしろ、彼/彼女のような語りに違和感を持ち、「それはちょっと恥ずかしいのではないか」と感じてくれる人に向けて書いています。私は、そのような感覚こそが、公共空間を支える最後の防波堤だと信じているからです。

第3節で述べたように、あの「武勇伝」的語りは、複数の倫理的な問題点を孕んでいます。文化的優越感への逆転的欲望、力による支配の肯定、そして配慮を欠いた正義の行使。それらはいずれも、公共性を破壊し、個々の尊厳を踏みにじるものです。その語り方が受け入れられるということは、知的・倫理的な水準の放棄に他なりません。

私たちは、「粗野であること」「他者を屈服させること」「差別的な言動を痛快に語ること」を“笑い話”にしたり、“勲章”のように掲げたりする感性から距離を取る必要があります。むしろ、それを「忌むべき」と感じる理性こそが、今の社会に最も欠けているものではないでしょうか。

この文章は、そうした感覚を持つ人に、「その違和感は正しい」と伝えるための、ささやかな声の一つです。


おわりに:倫理と公共を回復するための語りへ

私たちは、社会の中でさまざまなことを語ります。何を語るかも大事ですが、それと同じくらい、どう語るかが問われるべきです。語りには構造があり、構造には力が宿り、力には倫理が必要です。

「武勇伝」として語られるべきではない語りがあります。粗野であっても、支配的であっても、結果が出れば正しいという発想が、私たちの公共を蝕んでいる。そうではなく、私たちは共に生きる知性と、語りにおける節度を回復しなければなりません。

この論考が、誰か一人でも「この語り方は危うい」「こういう態度には恥じるべきところがある」と感じるきっかけになれば、それだけで書いた意味があります。そしてその感覚が、日々の選択や言葉に少しずつ反映されていくことこそが、倫理と公共の回復につながると私は信じています。